なんとなく元気

なんとなく元気なつもりで・・・

春。今という同時性が価値ある「地の情報」なんだ。

春です。
田舎に行って春を見つけた。

菜の花畑です。
季節を体で感じさせてくれる。
今自分の目の前の光景を同時に共有できることは信頼しうる「地の情報」といえるような気がする。
俗に言う「なう」。
「なう」を共有してはじめて「地の情報」と言えるんだと思った。
今を共感できる関係性は大切だ。
過去の同時性や集合体への帰属性がどれほどの信頼性をもつのか。
例えば学校の同窓という関係性。
選挙シーズンを迎え、「◯◯の同窓から政治家を出そう」などよくあります。
ああ、彼なら知っている。応援しよう。
となりそうですが、さて「なう」を共有しているかな?
過去を共有していたことの信頼性はどれ程あるのでしょうか。
他人に薦めるためには「なう」を共有しあえる関係が必要だと思うのです。
逆にいえば政治家の皆さんには支援者との「なう」共有が必然なのではないだろうか。
過去の友人が信用できないというのではなくて、
逆に「なう」を共有することを怠ってきた自分への戒めなのです。
肉親とでさえ、ちゃんと「なう」を共有できているだろうか?
別にTwitterを勧めているのではありません。
見知らぬ他人と「なう」を共有する前に、もっと大事な人との関係性を見直さねばと思ったのです。
今自分が感じた美しい瞬間を同時に共有したい人の顔をどれだけ思い出せるだろうか。
その関係性が価値なんじゃないかな。